左から来る

右からは来ません

夜桜トリートメント

歯茎が腫れた。大人になっても歯医者は嫌なものだ。今まで通っていた歯医者には思うところがあり、これを機に別の歯医者に予約した。

仕事で寝不足が続くと、歯茎がうっ血していつの間にか治まることがしばしばあった。だから、軽い気持ちで、しっかりハミガキしていれば問題なかろうと3日あまり放置していた。

ところが、最近は寝不足でもない。

おかしいなと、鏡で確認したら予想を上回る腫れ。

まあ、これでも仕事があるから業後に予約したわけだ。

ついでだから悪いところあれば一掃してやろうと意気込んでいる。歯は健康な生活には必要不可欠だと思うからだ。

 

しかし、歯茎に違和感を感じると呑みたい気分にはならない。

健康的なのかそうでないのか微妙だ。

腫れが気になるとがっつり食べる気にもならない。

そこで今日は公園で軽い食事を摂った。

幸い陽射しも心地良く、風も穏やか。もちろん桜も。

こんな日こそ花見にぴったりじゃないか。いや待て、夜桜も捨て難い。

ふと何年か前のゴールデンウィークに夜桜を愛でたことを思い出した。あれは僕が住む街からずいぶん北だ。

 

あの時、手持ち無沙汰で魔が差した。

スマホにプリインストールされていたゲームを初めて立ち上げた。

ところが退屈が癒されるどころかちっとも面白くないではないか。だから僕はログアウトしようとした。

すると、誰かに話しかけられたんだ。

そのゲームはチャット機能もあるのだ。

何を話したのかもうすっかり忘れてしまったが、ウマが合った。

だから何度か会って話すうち、流れで僕の出張帰りに会うことになっていた。

果たして、どんな男なのだろうか。「自分」という一人称。ちょっと無骨なお兄ちゃんだろうか。地元の楽しいスポットで美味しく酒が飲めるといいな。

そう思いを馳せながら暫く電車に揺られて、改札口。

待ち合わせから数分過ぎた。大きめのスーツケースに僕は腰掛けた。

仕方がないからゲームにログインすると、「自分は改札口の柱の近くに居ます」とメッセージ。しかし、それらしい人物は見当たらない。

目の前には僕より一回りくらい歳下に見える若い女性と、旅行者風のおばさんが二人。

若い女性は色白でニット帽をかぶっていてすらっと背が高い。

“もしかしてニット帽かぶった子? 俺は黒いライダース着てる”

僕はそうメッセージを送った。

 

「おお!」

「おお!」

 

猿がデタラメにタイプした文字がシェイクスピアの「テンペスト」になったのだ。

 

彼女に連れられて行った先は城跡。生い茂る木々の枝には、数え切れないほどの小さな花弁が競うように広がっていた。

「……おい、満開だな」

「こっちの桜は今なんだよ」

化粧っ気のない唇から溢れる白い歯。

見たところ、酒に強いようには見えない。と僕は思ったが、適当なつまみと酒を屋台で仕入れ、二人で花見をした。

 

やはり予想は的中し、介抱したのは僕だった。見た目通り体重は軽い。

中越しに香るトリートメントと咲き乱れる夜桜に、とうとう僕も酔ってしまったのは内緒にしておいてくれ。

 

 「なあ、また来ていいか?」

 

「待ってる」と吐息交じりに囁きかけられた。

ちゃっかり起きていたよな、お前。

 

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無限猿プロトコルスイート:https://www.ietf.org/rfc/rfc2795.txt