左から来る

右からは来ません

ニヤニヤしているおっさんになって

この人とはリズムが合わないよな。と、誰かに対して感じた事が昔はしばしばあった。

一般的な言葉に置き換えれば、「反りが合わない」、「肌が合わない」だろうか。

そこまで腹を見せて人と向き合うことも無くなったのか、とんとそのような事を感じる機会は無くなった。

何事に於いても、良くも悪くもフラットに接しているように見えるだろう。

 

僕は怒りや悲しみとか、喜び、或いは潜在的な怖れとかに自身の実体が存在するかのように振舞っていたこともあったが、感情は状態が遷移し続けるものであり拠り所では無いといつしか考えるようになった。

このように表明してしまうと、「ニヒリズムの海に沈んだか」と曲解される事が少なく無いが決してそうではない。時には僕に怒りの矛先を向けんとするような反応もあった。だが、僕は誰かが何かを頑張って取り組む事を否定している訳じゃない。熱情を胸に一所懸命な姿は、クールだと素直に思う。

ハッピーであるためには、今この瞬間どうあることが望ましいのかと僕なりの探求をしているだけだ。

だから感情は否定していない。自分の感情を含め全ての物事が移ろうのは当たり前だと思うようになったに過ぎない。

液体、固体、気体、プラズマ。物質という切り口で捉えても、相が転移する。しかし物質としての水は水のままだ。

例えば、亡くなってしまった、親類や自分を好いてくれた人、親交深めた友人たち。

この手で触れようと思っても叶わないが、相転移したかのように心の中で今でも存在し続けている。

 

「生物を神様視点で眺めると、素粒子が時間の推移と共に集合と離散を繰り返している軌跡は樹木のようだ」

 

マックス・テグマークに言わせれば、そんなところだろうか。

全ては変わる。故に感情に翻弄されるがままの自分であることはやめて、自身がどのような状態であるか観察する自分を置いた。そういうことだ。

 

そんな風に物事を捉え始めると、何かに対して気持ちが執着することもあまり無くなってしまった。それと繋がるのかどうか分からないが、ますますテレビや映画を見たいと思わなくなり、世間の話題にも疎くなっている。

映画やテレビに出演している誰かに似ていると言われても、果たしてピンと来ない。例えば、「あなた、中大兄皇子に似ているねー」「違う違う、小野妹子じゃね?」と言われてもピンと来ないと思うが、それくらいピンと来ない。

というか、中大兄皇子すらぶっちゃけ良く知らない。「蘇我入鹿め、ぶっ殺す」とかtweetするぐらいだったのだろうか。

世事に疎くなった代わりに、日光の暖かさが心地よいとか、風が気持ち良いとか、食べ物が美味しいとか、その一瞬一瞬が深く鮮明になった。カッコつける気もないけれど、以前よりも生きている存在そのものが少しだけ愛おしいと感じられるようになった気がする。

今の僕にとってはそれはとても価値が高いことで、気が付くと僕は微笑んでいる。

一体これ以上何が必要だというのか。

 

僕は実につまらぬおっさんになった。他者に対するサービス精神に欠けてはいまいか。

側から見ると「なんだあのニヤニヤしたおっさん」と薄気味悪い存在なのではないか。

という微かな心配もある。だからか降霊術よろしく昔の自分を時々人様の前に呼び出しては戯れている。

 

ジョン・ライドンが「I was a punk rocker.」とのたまっているのを見て、唾棄すべき奴に成り下がったものだ。と、かつての僕は思ったはずなのに。

 

あれ?
書こうと思った事と全く異なる内容になってしまいました。それはまた今度。